<26>私のための映画

<26>私のための映画

近所の図書館のDVDコーナーに、1959年の新藤兼人監督の『第五福竜丸』があったので迷わず借りた。
第五福竜丸って何?という人もいると思う。1954年にビキニ環礁でアメリカが水爆実験したときに、付近にマグロをとりにいっていた、私の故郷、焼津の船の名である。
その後福竜丸がとってきたマグロはもちろん、乗り組み員の人びとも放射能をあび、23人全員が原爆症になってしまった、そういう歴史的事件の主人公になってしまった船の名である。
新藤監督の映画は今までもよく見ていた。『裸の島』のことなどはずっと前このコラムにも書いたと思う。好きだからって、積極的に情報収集するでもないので、この人が焼津を舞台にした映画を撮っていたのを知らなかった。

はじめにモノクロ画面に出た文字は、『協力・焼津市』。おお。
画面にはどこなのか、見当のつきそうでつかない風景。
あれ、これ北浜通りかなあ、あ、これは赤灯台だ、ついこの正月にここで撮影したなあ、ここは漁協だねえ、昔の市役所こんなに情緒あったの?・・・不思議な気分だ。
シーンは、当時の活気にあふれている焼津港。長い漁から帰還した船に群がる女たち。
ああ、石油王(焼津のガソリンスタンドのおじさん。石油王、と呼んでいる)がよく云ってたっけなあ、『昔ャあ、船ン帰ってくると、すげえっきだお、女ン衆ん群がって。』ってこのことかあ。
事故後の福竜丸船長の久保山愛吉さんが入院シーン。ベッドのまわりには、久保山さんの小さな娘が書いたお習字の文字が張ってある。その文句とは『おまつり』。
そしてなんと、入院中に過ぎてゆく季節の描写に、なんとあの『荒祭り』の光景が、短くてもちゃんと入っているのだった。おお!!
こうして、焼津の船乗りの人が昔から陸では何を楽しみにして、何に燃えて生きていたのかも分かる。年に一度の祭りがどんなに生活に根づいていたかもわかる。
そして何年もして、あの事件を母からしか聞いたことのなかったいちネーチャンも同じく燃える、あの祭りの50年前の光景を、思いがけず見ることができる。変わっているようで、やはり昔のままのあの光景を。
人類は『変わっていない』ということにとても医やされるのだな。なぜだか。

この監督の映画はテーマもはっきりとあるが、どんな境遇の主人公でもテ-マ以上にその人の魅力がちゃんと映っている。俳優の個性に負うてもいず(そしてその結果、個性がほどよく滲みでるというすばらしさ)、監督が描きたい人が、ちゃんと描かれている。

新藤監督は事件の後の焼津に生まれ育ったいちネーチャンが、こういう風にあの映画を見ることも知っていたのか。
だって、まるで私のために作ってもらった映画みたいだから。もちろん故・久保山愛吉さんの家族の人も、船のりの人も、祭りを愛す人、病床にいる人、そして特に共通項のない人も、たくさんの人が同じ様に感じ、慰められることだろう。
こうやって出会って借りて、ぜひ一生近くにいて欲しい、と思った作品は、ちゃんと後で買う。

だけど何より、兵器を作っちゃあ売ってみたり、買っちゃあ実験してみたり、そういうことを生業とする気の毒な人々に、この映画の優しさを味わってもらいたい。あんたっちの為の映画ずら。

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