<73> 春の午后、その2

<73> 春の午后、その2

春になると、まるで生えたばかりの種々の小草のようなことを、なぜか書き記したくなる。

携帯の機種変更しようと、久しぶりにひとつ向こうの駅まで歩いた。

天気もいい。花粉も減った。
地球のどこかでは大きな地震の直後だし、テロの後だったりするし、浜松では大変な地滑りの直後だったりするというのに、穏やかな良い日だ。今も 福島の人たちは苦労されているし、横田夫妻は拉致問題解決のため、日々活動をされている。人生の長い時間を、国家 × 個人という途方もない戦いに費やして来て、もう高齢であるお二人(だけではないが)のことをつらつら考えつつ、そして自分の運動不足を感じつつ、つまりとりとめなく、歩いていた。

いつも気が焦っている。そのクセをやめようと思っている。その方法として、その都度、意識的に確認。
・・・差し迫った大きなイベント、ナイ。締め切り、ナイ。こないだレコ発ライブを頑張った、だから大手を振って気分転換して、ヨイ。今、ジブン はここを歩いていて、諸問題はあれど、春を味わって、ヨイ。そのために春の色の服装をして出て来たの、デス・・・

ふと、舗装されていない、土の地面が見えた。めら、とオデコの奥が開く感じがした。
私有地らしき畑。出て来たばかりのつやつや新芽におおわれた、スペインやギリシャの田舎みたいな一角。オリーブ農家がやるみたいに、幹の低いところから三つ叉に整形された老木がたくさん生えている。梅農家らしい。
そしてその、葉の茂りかけた梅の木の間に、おじいさんがいた。ビールケースに座って、鍬を置いて、ひとやすみ中。

その光景のあまりの春っぷりに、つい、わかるかわからないかくらいではあるが、お辞儀してしまった。すると、通り過ぎようとしたとき、声をかけられた。もう見えないところまで行っていたのに、引き返して、『はい?』と返事すると、おじいさんが『タケノコは要らないか?』と云う。

二週間ほど前、冬に一度だけ会ってタケノコの話をした人に、ひょんなことから連絡がつき、堀りたてのタケノコをたくさん送っていただくという棚ボタの幸福をいただいたが、もちろん大のタケノコファンとしては、あの幸せはひと春に何度あってもいい。『要ります!!』と即座に返事した。

ではここに座って待っていなさい、とおじいさんはビールケースを指さして、私はしばし梅の老木たちを眺めていた。地面から生えている『スズメのエンドウ』にはたくさんのアブラムシがついている。ああ、春だ。諸問題はあれど。

5分ほどして、おじいさんはスーパーの袋に入れたタケノコを持って現れた。さっき堀ったばかりだ、という。
『今日は散歩ですか? いいねえ、若い人は。昭和50年とか、その辺の生まれでしょうに?』
と云われ、ふってわいた幸運に、ふわふわしながら、
『・・・はい、まァ、その辺です』と、つい、答えてしまった。

おじいさんは、戦時以降、中国に40年も抑留されていて、命からがら日本に戻ってきた、という。同年代の仲間が何人も向こうで亡くなったそうだ。
『もう余生ですよ』との言葉に対して、そんなことはない、と云えれば良かったのに、無言でうなづいてしまい、ちょっと後悔した。
自分のことは、静岡出身で、ちょっと先に住んでおり、戦争を知らない世代であり、大のタケノコ好きだと話した。
別れてから振りかえると、15メートルくらい向こうでおじいさんは見送ってくれていた。

携帯ショップに着くと、店員があと二週間、機種変更を待った方がトクですよ、と云うので、では二週間後にまた来る、と答えた。アタマを使わずに済んだので、助かる。
なにしろ人生、『どうするのがトクか』を考えるのが、いちばん骨が折れる。結局はそれを考えていることに、イライラしちゃって。戦争を知らない世代、携帯ひとつとっても悩む。メンドくさいったらありゃしない。
二週間後は、考えたらツアー中だから、どこか知らない町のショップに行くだろうことに、あとで気がついた。

となりの駅は、ここ2年ほど路線の地下化工事の最中で、大規模に変わりつつある。こないだまではビニルに覆われていたのが、久しぶりに来たら、建物がすっかり無くなって、地下に潜っていた。

その後、図書館で『ああ野麦峠』のビデオを探したが、やはりなかった。私の住む町は、『映画の町』らしいので、ここなら、どこを探してもない『ああ野麦峠』があるだろうと思ったが、やはりなかった。かわりに貸出禁止の、この映画の資料を小一時間読みふけり、『楢山節孝』と『日の果て』のDVDを借りた。

タケノコのおじいさんと、山椒大夫のことと、夕食のメニューについて考えつつ、つまりまたとりとめないく歩いて、自宅へ帰った。

今夜、タケノコを『焼き』で戴くことにした。

 

<73>