2005年、はじめての写真集『旅の空』が出版されて以来、幸運にも国内の小さなギャラリーから、思いがけずもここから世界でいちばん遠い国アルゼンチン共和国の国立図書館に至るまで、写真展開催のチャンスをいただいてきた私ですが、2006年当時、とにかくバタバタ走り回っていたので、スペイン語でメディアに載せられた以下の貴重なコメントをまとめるまで手が回りませんでした。
 2015年秋になって、久々に暗室にこもり、次の写真展のお話をもらったところで、雑誌や新聞を整理しようとしたところ、暖かいコメントが見つかったので、感謝と共にここに公開させていただくことにしました。

2015.9 Aki Suzuki


●<アルゼンチン国立図書館長 オラシオ・ゴンサレス>

 スズキアキの目は、‘筆のほんのひと運び’ くらいのちょっとしたニュアンスの中に、宇宙のある瞬間を取り上げようとしている。未知なるものにおいて、見知ったものを見出そうとしている。

 旅は彼女にとって、‘ひとの生活’ には世界のどこであろうとーモンゴルであろうとアタカマ砂漠であろうと ー 通づるものがあることを確認する作業だ。が、その感覚を得るには、人間と対象物への理解を、つきつめた第六感まで研ぎ澄ませねばならないことも知っている。

 あるときは家路につく男の完璧なまでの孤独、あるときは、庶民のアイコンとも言えるものが、アルゼンチンの路上の靴磨きの光景に現れ、そしてまたあるときは、日本のとあるいつもの午後の楽しげな老女たちだったりするそれらの写真は、情景のもつ抽象性から、昔から人がそうしてきたこと、つまり‘生きることとの和解’ へと架けられた、暖かいかけ橋を描いているのだ。

 ふとした笑いが子供たちを揺り動かすとき、彼方にそのかけ橋が見える。





●<元NYタイムス記者・フォトグラファー, ジャーナリスト   ラウル・シェード>

 カメラレンズが喋る言葉と、光と影の激しい音は、目に見える世界よりずっと遠くに届く。

 スズキアキの旅は、‘思考’ と ‘知’ の道ゆきとなった。愛機ニコンとライカM3、そして1925年製ローライフレックスのシャッター幕が、過去の記憶のダムの堰を切る。何ともつかぬ『人の本質』へと向けて。

 単なるエキゾチズムや感傷に落ちず、物事の深みでさらに深くを見ることで、スズキアキはイギリスの人類学者マリノフスキーの云う ‘エキゾチックなものも、そうでないものをも、身近なものにして’ いる。目の前に深淵があっても彼女は立ち止まらない。出口のない砂漠や小道を前に、その底知れなさにとらわれてもいない。彼女の情熱は、アンデス高地のインディオ (写真タイトル:塩を踏んで)、バスに乗る人(曲タイトル:旅人眠る)— ニカラグアの詩人、カルロス・マルティネス・リバスの言葉を借りれば、その旅人は ‘満足そうに、こともなげに、孤独や苦さは不似合いな様子で’ いるのだがー、そして昔チンギス・ハン率いる馬上の侵入者たちがもうもうと砂埃をあげて、陶酔のうちに(ボルヘスのいう ‘自らを金属のメモリ細かいピンでなく、10年ごとの長い目で測る不眠症の男’ のごとく)世を支配したモンゴルの馬(写真タイトル:ひととき)、などの間にある ‘線’ を再発見しようというものだからだ。

 日本の釣り場の小宇宙(写真集表紙)は、ミッシングリングの申し子スズキアキには、共に釣り針を垂れて探究する相手がいないからこそ掘り起こされた、数々の夢の永眠の地である。物事の本質は、あらゆるところに遍満しており、時に人はそれを捉えるのにカメラのレンズが必要だ。そうしてはじめて、我々のちっぽけさ(が故に我々自身を知るためのもうひとつの道を開けるのだが)、を知覚できるのだ。

 鈴木亜紀は ‘ものを作る’ という昔ながらの楽しみを失ってはいない。仕事道具が、消費主義的な合理的工程を拒む ‘蒸気機関’、または ‘機織り機’ のようなものなのだから。

 イマジネーションとひらめきは、我々の精神を停止へ向かわぬようにするための、たったひとつの確かなものだ。





●<ロック歌手 フィト・パエス 『la mano誌』 より抜粋>

… アキの写真集がこっち(ブエノスアイレス)に ’ひっそりと’ あって、それがすごくインスピレーションを刺戟するものだった。僕の歌で例えば、『Cae la noche en Okinawa』(沖縄の日が沈む)なんかは、曲は出来ていたんだけど、アキの写真集の表紙がそのときの頭にあった歌詞を捨てるのを後押しして、全く別のものになったんだ。…



●<アルゼンチン版 『Rec Play誌』 より抜粋>

 スズキアキの作品(見る作 品も、聴く作品 も)は、うっかり見過ごされてしまう‘些細なこと’に依っている。それはちょっと見には現れてこないもので、マクロよりむしろミクロなものに焦点をあてている。彼女の歌と写真は、つまり似た道すじを通る。日常のものを間近にとらえ、その中から宇宙的な何かを取り出すのである。

 彼女の世界には、どこかの漁村、アタカマ砂漠など目もくれず眠り続けるたまたまバスに乗り合わせた見知らぬ旅人、そして海と川、スペインとフラメンコ、日本、など、アルゼンチン人には意外な角度から見たものだ。
 
 これらの歌は何からできているか?
 旅、日常の活動、他者の伝統への適合、そして強い感受性である。