<13>私的正月

NO IMAGE

2003年の祭も終わった。祭から祭までを一年と勘定する私にとって、今は正月である。
世界よ、明けましておめでとう。

正月は(以下、私的正月、と呼んで区別する)寂しさと共にやってくる。よく私の歌を聴いてると飲みたくなると云われるけれど(以前、人に応募されて出たコンテストで、『ヘンなコメントですが酒が飲みたくなりました』と云った審査員がいた。それでグランプリをもらった。その審査員、誰だったか忘れちゃったけど、このヒト好きだな、と思った。)私的正月のこのせつなさが私の根っこなので、それはいかにも、と思う。

今年も確信したが、焼津祭は強烈な『ハレ』である。だから強烈な『ケ』も伴う。
その間にあるものが、なにかみずおち付近をきゅんとさせる愛のようなもので、特定の家族や仲間や特定の異性にあてられる執着だけが愛ではない。その愛の中で、ひとりの人間の中にあるコントロール不能なエネルギーが解放されるのが祭と思う。大人がホンキで狂喜しているのだから。それを感じられる環境にあれば、一瞬キレたが為に一生をボウにふってしまう少年は減ると思っている。私もケッコウ屈折していたが、今のところ犯罪をやらずに済んできたのは、この祭のおかげが大きい。祭になると人が変わる人がいるが、人が変われる日があるってことはとても幸せだ。

何度も云うが、焼津祭は見せる祭ではなく、やる祭だ。だから、よそから来た人には今いちつかみどころがないかもしれない。でも私の願いとしては、できれば 11日の夜には焼津にいて、12の朝から13の真夜中まで、全行程を見て欲しい、と思う。そして14日にはできれば焼津港花火大会を見て、15日に帰って欲しい、と。
いそがしい現代人には諸事情あると思うが、部分的にちょっと見て、うん、いいね、と帰ってしまわれるのはいつも秘かに断腸の思いだった。おしつけがましいと悪いけど。

今年も東京からの友人が、最初から最後までどっぷりと味わってくれたので、こんな幸せはなかった。
11日の夕方、その友人と焼津駅から実家へてくてくと歩いて行くと、家の前の歩道になにか茶色いものが見えた。近付くと、一匹の猫が車にひかれて死んでいた。猫は口から血を吐いてはいたが、きれいだった。飼い主に可愛がられていた様子だった。
箱にビニルときれいな布紙をひいて、庭の花を添えて葬ってやった。ビニルの上から頭と体を撫でてやると、まだ暖かくとても柔らかかった。気持ち悪いとか、縁起が悪いとかいう感じがまるでしなかった。翌日役所の人がとりにきてくれるまで、一晩実家の庭に眠らせた。
祭の前日に縁起でもない、という考え方もあるかと思うが、何か全くそういう感じがしてこなくて、その猫がまるで身を捧げたか何かの身替わりになったか、そんな気がした。

子供のころから白装束を着て祭に出ていた同級生の男子たちは、毎年祭の夜だけ会うが、年々からだがキツイと云う。今年は、『あんえっとん』と云いながら神輿をかつぐことがキツい、と云うのだった。
せつねえな。
私は年々若くなる、と云われちゃッたけど。お酒ばっかり飲んでるのに。

14日、いつもなら焼津港花火大会だが、雨で中止になった。
そこへタイミングよく、1stアルバムのジャケットの絵を書いてくれた、堀越千秋画伯が焼津の土泥棒というギャラリーで個展をやっていて、そこへ来るというので、出かけた。
氏と地元の人数人と、雨の中の、なつかしいようなとても良い時間を、酒なしですごした。なんだ、酒がなくても十分幸せで楽しいじゃないか。
でも土泥棒に酒があり、私が車じゃなかったら、必ず飲んだことだろう。

こうして私的正月はじめにはふさわしい、有りがたい元旦となった。
『ケ』と『ハレ』の間には、本当に愛がぎっしりつまっている。

<13>