<31>蛍光灯と白熱灯

<31>蛍光灯と白熱灯

多感な頃は、蛍光灯の光が嫌いだった。世界が寒々しく見え、ただでさえ辛いこの世をより辛いものにしている、と思った。
私は若かった。というよりも、元気だった。

もとより視力の良い私は、早く老眼になるよ、と云われてきた。そしてこの頃、『初恋』を『初老』と読み間違えたり、『物腰』が『横綱』に見えたりして、さっぱり意味がつながらず、本など後戻りしつつ読むようになった。

始終目の奥がチカチカしていて、物事に集中できない。譜面も見づらい。写真の暗室作業にもより手間取るようになった。粒子などをルーペで見ていると、時々、叫び出したくなる。
来るべき時がきたってことで、まあしょうがねえか、と、兄・Mの口調をマネて云っては、気にしないことにしていた。老眼か。あ、若年性ですけどね、と。

ところが、ふと気付いたら、暗室は別としても、なぜか自宅にいる時にそうなることが多い。そして思い当たったのは、もしやこれらの、天井からいくつも蜘蛛の糸のようにむき出しに垂れ下がった、白熱電球のせいかもしれない、ということだ。むかし母が云ってたなあ、『あんた、こんなに白熱灯ばっかりで、目が疲れるよ』と。当時はわからなかったけど。
即座に近所のパルコへ向かって、気恥ずかしいボサノバ調のムーンリバーなど流れる『おしゃれ』なインテリア店で、中国製のスタンド式ライトを手に入れた。そして電器屋で、高価な蛍光電球を買い求め、大荷物を抱えて戻ってきた。

組み立てて、点灯した。

そこに生まれた光は、たとえて云うなら・・・遠く一昼夜を駈けて辿り着いた異国の、知らない人のすむ知らない町なのに、なんだか懐かしい食堂の看板の光。この青白い光に心ゆさぶられた、疲れ目など知らない頃の多感な遠い年月。

記憶が瞬時によみがえってきた。蛍光灯ならではの情緒というものがあるのだな。この青白さにこそ、何か『はるかなもの』が宿っていたのだな。自分が求めてやまない『はるかな世界』は、蛍光灯の光の中にあったのだな!
目を開け続けていられる。目の奥のちょっと上のところが、もう痛くならない。集中できる、字も読める、しかも正しく!
意外な程の感動だった。

てことは、物理的な視界の明暗と心のありようは、おおいに関係あるのではないか。
そういえば、周辺の人々をそおっと見渡すと、ここだけの話・・・

暗い白熱電球の下で暮らすNさんは、まだ現役、というか、枯れたようなことを云ってはいるけど、ちゃんといろんな欲を保っている。とろっと。その電球の暗さは、まるで陰影に守られる自己の神秘を保とうとするかのよう。

白熱と蛍光、両方の程よいバランスの灯りに住まうRさんは、欲もあるが、それを昇華してもいる、ように見える。陰影もちょっとはある。

蛍光灯をカンカンに点灯、まるで深夜のコンビニのように住まうOさんは、もう、かなり枯れている、かもしれない。かつて欲があったことは覚えているが、もう記憶がついてゆかない(みたいなことを、本人も仰る)。明るさは欲しいが、電気代と目の労力を節約ネ、というのも伺えて、なかなか。‘もう陰影にて守るべきものなどなにもない、それどころか、もう身辺整理をするかのように、全てを白日の元に照らしてしまえ!’。

私も晴れて本日、蛍光灯デビューをしたからには、Oさんの境地になる日も遠くないかもしれない。蛍光灯をつけたって、もう世界が‘寒々しく’なんて見えないし、むしろ‘ありがたい’と感じる。

さらに余談。

先日、楽屋で『もう更年期だったりして』と、冗談のつもりでうっかり云ったら、打楽器奏者のOさんは、『えー?そんなこと云わないでもう一花咲かせてくださいよオ』といつになく寂し気に仰った。
ふだんこの方はあまりたくさん喋る人でなく、お返事はたいてい『素晴らしい。』『まじっスか。』『オッケーです。』『あ、オレ?』のうちのどれかだから、この時は少し驚いた。
思えば10代の頃のワタクシを見知っている貴重な人だから、かつて10代だった人がそんなことを云うと、自分の年月を振り返るよりも、よりリアルに月日の流れを感じさせるのかも知れない。
悪いような気持ちになって、以来、『老い』を連想させる言い回しはやめよう、と思った。こういう、変な気遣いを私はよくする。

 

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