<45>目の人

<45>目の人

目の人に会いに行った。
メガネやさんではあるけれど、いわゆるメガネやさんとはちょっと違うし(正式な称号はあるらしいけど今ちょっとわからない)、お医者さんでもないしで、何と呼んでいいかわからず、紹介してくれた知人の呼んでいたままに私もその人を、目の人、と呼んでいる。

私の目はここ5年ほど、やたらチカチカし、ものがかすみ、ゆらぐようになった。ライブ中、照明の加減によってはめまいを起こし、倒れそうになった。幸い、ピアノ弾き語りというのはいつも座りで、立って歌うのはイベントやアンコールで調子こいたときくらいなので、倒れたことはないけど。
や、正確にいえば、その3年くらい前から、右の耳がガンガンして、耳が落っこちてしまうような、骨を削るような痛みがあって、鼻血も出るから、まず耳鼻科に行き、全く問題ないといわれ、脳外科へ行き、全く問題ないといわれた。いやに早い老眼だなと思いつつ、人ンちにあった老眼鏡を持ち帰り、たまに使っていた。

本をめったに読まなくなった。
読んでもさっぱり意味がわからず、主人公の名を覚えられなくなり、読んだ直後、はて何の話だったか?という始末。
そのうち神経系、婦人科系の症状も出て来た。
家の照明を全部変えた。パソコンや携帯電話の画面を見るのがつらくて、ゲロ吐いてしまうので、メイルは必要最低限のことに返事を書くくらいに留めていたが、何度それを訴えても、『何故ミクシイに入らないか』、それならまだしも、『おい、生きているのか?』といった、いい大人に対して失礼ともいうべきメイルに私が返事をしないからと、立腹の人も多かった。そういう人は、こちらがちゃんと説明して理解を求めても、そもそも聞く気がなく、『君というヒトは自分勝手で、自分の用事があるときしか連絡してこない』の一点張りで、ワタクシの『無返信』によって、自分がどんなに傷ついたかだけを、繰り返し訴える。多分、どこがどう悪いのだか、見た目でわからないせいだろう。酒も飲んでるし。
とはいえ、私も今まで『目がいい』代表選手だったから、目の悪いとはつまりどういうことか、想像できなかった。だから、読み間違えとか、すれちがっても知らん顔してる人とか、いったいどんな意図があるのかと思ったことがある。

ある日電車に乗っていてふと、片目づつでモノを見てみた。すると、その見え方がすっかり左右で違うことにおどろいた。耳ガンガンするほうの右の目が、ものっすごいピンボケていた。
なるほど、と思った私は知人の紹介でメガネ屋に行った。
遠視。さらにキツい乱視が入っているという。右だけかと思ったら、左も少し。
さっそくカッコイイ眼鏡をつくっていただき、これでまた世界はワタクシの目の中に戻ってくる、と意気揚々だった。でも、確かに見えるようにはなった一方で、何だかまた世界が視界から、以前と別の次元で希薄になってゆく感が生じはじめた。ひとり、無の空間にポッカリ浮かび、この世から少しづつ遠ざかってゆくような感じがして、淋しくなった。
ではまたもう一つ、主に近くを見る時のための眼鏡をつくりましょう、ということで、おなじ眼鏡屋さんでまた、もっとカッコイイのをつくっていただいた。もうこの二つがあれば無敵と思えた。

私は、ただ、仕事に支障のないメイルについては返事を出せないこともある、その時はお電話くだされ、という願いを聞いてくれるだけで良かったが、いろんな人がいろんな病院など紹介してくれ、それは紛れもない善意であって、その中にこれはというのもないとは言い切れないと、勧められたところにはほとんど行ってみた。そして、どんな病院でも、似たような検査をし(それはそれでどこも丁寧だったが)、いわゆる目ン玉などを診た限りでは何も問題ありません、というものだった。やっぱりな、と思った。

・・・住まいの壁が迫って来るようになり、タコツボの中で生きているみたいで、ギャーと叫びたい衝動がおこり、何をするにも休み休みしていたけれども、眼鏡をかけてもかけなくても、目を開けていられない、叫びたい、という感じになってきた。これは、家が狭いせいだ。よし、引っ越そう。
そして私は引っ越した。間接照明、なんて色気より、見えることが大事。でももうすでに、間接でも蛍光でも、見えても見えなくても、なにかがすごく辛い、という説明しがたい状況になってきた。このまま失明するのではないか、と思うようになった。

そしてついに、目の人に会いに行った。
遠視と乱視、そして斜位というのが入っているのだという。近視などは比較的対処がシンプルなのだそうだ。そうではない面倒臭いのが3こセットになって私のヴィジョンには宿っていて、大切なことは、目玉とか眼鏡とかをどうこう、でなく、まずは、ヴィジョンに附随する筋肉をほぐしてやることである、単に見えればいい、ということではないのだ、と目の人はおっしゃった。3時間かかりっきりで検眼、説明をしてくださり、わたくしの幼児期からの体質、青年期の精神的傾向までもピタリといい当てた。もちろん、現在の状況も。
今まで、単に遠視と乱視の度数、つまり数字だけを見て、こんなのまだ大したことないですよ、と云われ続けた。おまえは大げさなんだ、と云われているような淋しかった。でも、はじめて全て分かってくれる人に会って、感無量だった。メイルの返事をなぜ出さない、ミクシイをやらないとはガンコ者だ、と繰り返しおっしゃる人たちを、そこへお呼びしたい気持ちになった。

で、どうするか。
今の状態で、カッコイイ眼鏡をかけ続けていては、筋肉に負担がかかりすぎ、このままでは自律神経が失調してゆくばかり。仮のメガネをかけながら、少しずつそれをほぐしてゆき、潜在的な視力が復活したところで、状況に応じて眼鏡をつくるなり作らないなりするがよい。わたくしの目は、こんなに見えたくない、と訴えている、のだそうだ。全てをクッキリ見なければならない時にだけ、今の眼鏡をかければいいのだ、そうだ。

ということで、ハナ肇(もしくはケーシー高峰)を彷佛とさせるその目の人は、仮のメガネに、パチン、パチンと白いクッションテープをはりつけ、その上にまたひとつ指紋でいっぱいのレンズを張り付け、鼻あてにもスキマテープのようなものをくっつけて、わたくしのカッコイイ眼鏡の上に、それをかけて下さった。『あンまり人前でしないほうがいいねエ』とのこと。
それから、目の人のいうには、おそらく眼科でも私の行ったメガネ屋でも、持てるノウハウを極めて丁寧に診察なり検眼なりしたのだと思うが、いかんせん、日本においては眼鏡はあくまで雑貨扱いであり、保険もきかず、控除もきかず、したがって、『ヴィジョンの医療』は全体的にひどく遅れている、ということだ。

というわけで、私はこれに賭けてみる。株なんかとちがって、ちっともリスキーな賭けじゃない。自前のカッコイイ眼鏡の上に、なんかすごくヘンな眼鏡をかけて、しばらく町へ出てみるだけのことだ。

 

 

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