<46>メモのフシギ
- 2009.03.05
- column
つくづく、人にわかっていただくということは、難しいことだと日々思う。
だけども、自分ですらわからないのだから、全くもって当然なこととも思う。
いちおう社会人としての義務を果たすべく、確定申告の準備などしていて去年のスケジュール帳をめくった。ちょうど一年前、2月のページを見ていて、フシギなメモを見つけた。
my backskin
・・・私の裏皮・・?さらに、3月のページに
裏地亜紀
寒気祭
・・・ていねいに、さむけまつり、とルビまでふってある。何の祭か?不明。書類の山の中からも、たくさんのメモ切れが出て来る。続々と。
あそこを意識
・・・どこを?わからない。何に関するメモだろう?
もともと、メモるたちだ。というかやはり、必要にせまられてメモるようになった。広告の裏、紙袋のスミ、いらない封筒のちょっとした余白などに。
瞬間瞬間、暮らしの中でいろんな閃きがある。なのに忘れてしまう。「神は細部に宿る」というその細部にこそ、私の活動の拠り所があるハズなのに、全て通り過ぎて忘れてしまうとは、なんと淋しいことか。・・・というか、自分ですら’私である’ という自意識がどんどん薄~くなってゆく気がしていて怖いのだ。’エーテル感’がつのるのだ。だからメモる。必死でメモる。あるときまでは、あんなに自意識から解放されたい、と願ってきたというのに。繰り返すようだけど、目が霞んでくると自分の影まで薄く感じるのだ。
電車に乗ったはいいが、どこへ行こうとしていたかわからなくなることがしばしばある。はじめてそれに愕然としたのは98年、レコーディングスタジオへ通っているときだった。すでに1週間ほど通ったその道のりが、急にわからなくなってしまったのだ。それ以来、各駅へ乗るつもりでホームに立っていても、ホームに特急がすべりこんで来れば、スーっと吸い込まれたように乗ってしまい、あ!しまった、と引き返し、さらにまた目的の駅で降りるのを忘れ、そのうちどこへ行こうとしていたのかが、1分間くらい思い出せなくなったりするなど、しょっちゅう。
特に電車にひとりで乗る時は、ドア付近に立たないようにしている。ドアが開くとなぜかフッと降りてしまうから。降りて、人の流れにそって歩いていってしまい、改札あたりでハッと我に返り、ちがう、ここじゃない、と、また階段を上りホームに出たりするのだ。やんなってしまう。
朝起きたら、床に紙切れが置いてあった。ひらがなで
すぐきづけ
と書いてある。怖い。何に?何に気づけというの?一体誰がこれを?・・・でも明らかにそれは私の文字。いつものフニャけた文字。気持ちは焦るけど、何をすべきかわからない。今日何か大事な予定があったんじゃないだろうか?それにしても、なぜこんなナゾかけのようなメモを・・・なぜもっと具体的に・・・う~ん・・・
散々悩み、なのにそれも忘れてしまい、二日たって急に思い出した。
そうか!!前の晩、テレビで京野菜の’すぐきの漬物’が体にいいと云っていたから買いに行こうと思って、すぐき漬け、を書いたのだ!書いて、寝たのだ!
思わず声を出した。でも、二日もたってからメモのことを思い出したことにびっくりした。まだ大丈夫だな、という安堵も感じた。
それにしても寒気祭、ルビまでふってあるからにはいつか開催せねば。そこに足許から沸き上がる(あるいは天から降りた)確かな閃きがあったのだろうから。スズキアキの寒気祭・・・。
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