<52>ムンプス陽性

<52>ムンプス陽性

2010年の初ライブは、以前もお邪魔したことのある、群馬のおいしい日本酒の造り酒屋においてだった。
本番の2、3時間前から、なんだか骨や皮がゾクゾクし、気がつけば発熱していた。いつもなら、ちょっと熱があると『弾きながら歌う』なんてヘロヘロだが、なぜだかライブはちゃんとやれた。38度以上あったはずなのに、歌えたのが不思議だった。
翌日は藤沢の小さなバーでライブで、やっぱり骨と皮がゾクゾクしていたが、ちゃんと藤沢の駅で降りられたし、冗談なんかも云い、普通に食べて、お酒も飲んで、楽しくライブをやった。やっぱり熱があるのに歌えた。年々、だいたいのことに鈍感になってゆくが、こういう鈍感化はありがたい、と思った。

それから2日間。
ぼうっと過ごしていたが、なんだかやはりダルい。とりあえず顔だけ洗って寝てしまえと、夜8時ごろ顔を洗うと、頬の内側に白インゲン豆みたいなものがゴロゴロ入っていた。
そういえば何日か前、タナカユクコという人が提唱してすごく話題になった造顔整形マッサージなるものをマネして、風呂に入りながらひとりゴリゴリやっていたせいで、ホッペタが筋肉痛にでもなったのだろう、と、寝てしまった。

翌朝、起きたら『おかめ』になっていた。顔がものっすごくふくれている。そういえば今年の初もうでで、幼い頃から並々ならぬ縁ある神社でひいたおみくじに、なぜか小さな『おかめ』がついてたっけ。いつもの年なら、『くまで』や『亀』や『うちでのこずち』なのに。

その夜、夏に旅先で出会った人たちが帰国していて、集う約束があった。世界を自前の船で旅していて、異郷の船内で手作り和食をごちそうしてくれ、航海の話を聞かせてくれた人たちで、暮れからこの再会を楽しみにしていたのに。しょんぼりキャンセルした。

紛れもなくそれは『おたふく』だったので、病院へ行くのは熱が下がってからでいいや、とひたすら寝ていた。
群馬以来、会った人たちに連絡し、おたふく済みかどうか、確認した。みんなケラケラ笑って、『いやあ、やってないですけど、僕なんか元々おたふくみたいな顔ですから』なんて云ったりする。でもほら、男の人はおたふくで子種がなくなるなんて云うし、と思ったが、それは云わずに、私もケラケラ電話を切った。
翌日は、ソンケーする二人の女音楽家たちと乾杯する予定だったが、涙をのんでキャンセルした。自分からセッティングしておいて、おたふく。忙しい二人と次に乾杯できるのはいつのことやら。

その後、どんどんどんどん熱は上がってゆき、笑いながら電話をするなんてとても出来なくなってきた。食べるものも底をついたが、買いに出る気力もない。こんな顔してスーパーの売り場にいる自分を思っただけで、力尽きた。骨と皮がやたらゾクゾクして、何をどうしても寒い。熱は40度を超えていた。

やっとの思いで、となり町の友達に、うどんをつくってくれ、と電話した。彼女はおたふく未経験というので、宅配ボックスに入れておいてもらった。鍋ににぼしやコブで出汁をとってあった。うんいいよ、と即答で、うどんをゆで、出汁をとって、自転車をこいで冬の中きてくれたんだと思うと、じんときた。が、口が上手く開かなくて、食べるのにひと苦労だった。

二日後の自分のライブをキャンセルした。ライブハウスのオーナーは『おまえさんが男じゃなくてまずは安心』と云った。子種は大事。

翌日、平熱になった。と思った。が、ゾクゾクが止まらず腰もソワソワするので、どこよりも近い内科に行こう、と、人の気配ない個人病院へ行った。病院というより、民家。患者がいないから、すぐに診察になった。そこで熱を測ると、 38度7分あった。なんだ、もう熱の感覚がわからないや。顔のパンパンは最高潮。
先生は、うん、まあ多分おたふくでしょうね、と云う。血液検査しましょうとか、そういうことを云わない。何か質問すると、ええっと・・・と図鑑みたいなのを開き、そこに書いてあることをそのまま読んでくれる。ふだん小児科でないこの病院に、おたふくの大人なんてめったに来ないのだろう。小さな待合室に置かれた古い石油ストーブが、カタカタと小さな音を立てている。なんという落ち着き。元気だったら、そこのイスにすわって心ゆくまで本を読んでいたいような空間なのに。
ふわふわと、転びそうになりながら3分歩いて家に帰る。残っていたうどんをまた少し食べて、もうこれ以上寝れねえよ、とボヤきつつ寝た。

電話が鳴ったので、どうにか出ると、スペイン語だった。アルゼンチンから大切な客人が所用で来日していて、ぜひ会おう、という。そういえばおたふく前に、今月来日するって話はどうしたかな、と気にかけていたことを思い出した。ええっと、スペイン語でおたふくってなんて云うんだ?などと考えたが、口が開かないからそもそも日本語さえうまくしゃべれないところへ持ってきて・・・。
『あたし・・・今ベッドにいて・・・』
『こっちもだよ』
東京のホテルのベッドに座って電話をしているのだろう。ハアハアしながらあたしベッドにいる、なんて云って、変だ私は。
『あ、いや、・・・風邪で(おたふく「風邪」っていうから・・・でもこれ風邪か?)熱で・・・、伝染るんです・・・』
『東京じゃ道行く人がみんなマスクしててナーバスだね。きっと明日なら熱も下がるし、こっちが伝染るのなんて大丈夫だよ。紹介したい人もいるし、出ておいでよ』
『や、・・・顔が二倍で・・・耳の下に・・・ふたつのタマが・・・モゴモゴモゴ』
『???・・・なんだかわからないけど、とにかく明日また電話するからさ』

そしてその数分後、その’紹介したい人’からも電話が来た。アルゼンチンの女性のピアニストだった。タマがどうの、と、意味不明なことをもう一度くりかえした。彼らは二日後の早朝、帰国するとのことだった。
ああ、地球の裏からめったに来ないお客が来た時に、どうして私はおたふくなのか。なんでよりによってこの10日間に、特別な予定が集中しようとするのか。

翌日、私は本当におたふくなのかを疑問に感じだした。他のなんとか耳下腺炎とか、なんとか症候群とか、はたまた目の治療による好転反応ではなかろうか、と熱にもめげず考え出してしまい、血液検査を受けることにした。
やっとの思いで少し離れた大きめの病院にゆき、5時間待たされた後、採血した。インフルエンザの検査もして、その結果を聞くのにさらに1時間待たされた。インフルエンザではなかった。
夜になって、市内に住む別の女友達が電話をくれ、手作りのすき焼き弁当を自転車で届けてくれた。スープやデザートもついたフルコースで、丁寧に作ってあって、ひとつひとつしみ込む確かなおいしさに、また涙ぐんだ。
その後、だんだんに熱は下がり、ついに平熱に戻った。

気がつけば、最初の発熱から12日経っていた。こんな長い間子供のような勢いで熱を出していられるこの私!まだまだいけるぞスズキ、と思った。
アルゼンチンからも、大人のおたふくは大変だけど早く良くなって、というメールをふたつみっついただき、ふたつのタマの正体をわかってくれたことにほっとした。
手作りごはんを作って届けてくれた友人たちに、持つべきものは友達だ!と心底思った。
旅先で出会った船人たちは、いつか船に乗っけてくれる、というし、ソンケーする女音楽家たちは日をあらためてくれるというし、新年そうそう福が多くてツイてるね!とか、厄落とししたね、とか、みんな励ましてくれた。
藤沢のライブで一緒だったリクオさんからは、福島からの電話で、『アキちゃん、大変やったんやなー』とねぎらわれた。おたふくうつしちゃったかも、と最初に連絡した時の軽い感じと打って変わって、しみじみしている。なんでも、福島でライブの打ち上げ中に、地元の人たちと偶然おたふくの話題になって、大人になってからのそれはとても危険、という話をさんざん聞かされたらしい。子種は大事。

とまれ、私は生還した。薬をひとつも飲まずして。一時は記憶喪失になりそうだったが、今は前より調子がいい。というか、気分がいい。熱を出す、というのは紛れもなく浄化作用だ。熱でも何でも、体から何かが出るのは、最高のカタルシスにちがいない。人にはときどきそういう出来事が必要だと思う。

因みにその後、検査結果を聞きに病院へ行くと、先生は、陽性だからまあ、かなりの確率でおたふくでしたね、と、最初に行った患者のいない病院と同じようなことを云うのだった。100%おたふくだ、と言い切るには、治ってから何週間かして、再び血液検査をせねばならないそうである。そこで、おたふくのウイルスである『ムンプス』の抗体が増えていれば、『あのとき君はおたふくだった』と断言できるのだそうだ。
今度なにかあったら、最初に行った小さな内科へ行こうと思う。あそこでならいくら待たされても、読みたい本が一冊あればちっとも苦にならない。けれど、患者がいないから、すぐ診察されてしまうだろう。それに先生が図鑑を朗読してくれるので、本を持ってゆく必要がない。

 

 

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