<61>ワタクシの偉業

<61>ワタクシの偉業

尊敬すべきひとは、世界にたくさんいるものだ。身近な知り合いに大学のセンセイが何人かいるが、やっぱり教授ってすごいなと思う。話しているとなにかの折りに、ピッタリくるたとえ話がよどみなく、または、あらゆる知識がずらずらと芋づるのように出て来たりする。そしてたとえばスペイン語をさらに完璧にするため、アラビア語やラテン語を習得するなどという、とんでもないことをやっていたりする。
老いてなお、あくなき探求心。自分に置き換えるとクラクラして、頭の中が白くかすんでしまう。宝のつまったその書斎の本棚と、その脳ミソは、この人の死後もったいないからどうしたものか、と考えたりする。

NHKのスペイン語講座などでもおなじみの、福島教隆センセイという人も、直接お会いしたことはないが、書かれた参考書を読むと、説明の上手さに思わず唸ってしまう。歌手リリアナ・エレーロ女史も、元は大学教授だったが、共通点は、自分のしていること、感じていること、人が感じているだろうことを、シンプルでジャストな言葉にできること。書くのならまだしも、喋りながら。それはとても理論的で説得力がある。やっぱし理論的であるっていうのは進化的なのだ。頭がいいだけでなく、相手の理解を促す愛情がそなわっている。
私はといえば、大半のことはモヤモヤのまま、丸めた毛糸のように記憶のどこかにほったらかしたあげく、忘れてしまう。それで時々イライラするのだ。片付けられない女<記憶版>である。で、最後には、自分でもわからなくなって、とにかくまあそういうことだからさっ、でおしまいにしてしまう。よろしくないのはわかっている。

正月、福島教隆センセイの本を読んでいたら、

『―うまさうに何やら煮える雨宿り(江戸川柳)ー
のように、理詰めでは歯が立たないものを情緒的に結びつけてしまう融通性は、スペイン語にはありません』

と、云い切って、書いてあった。のを、ワタクシは読んで、ヒザを叩いた。

そう!
ワタクシは、こないだ出した、いとおしき4作目CD『Blue Black』にて、歌詞をスペイン語訳するという大胆をココロミたわけだが、まさに、よく云えば’融通性’、悪く云えば’丸め込み’のようなワタクシの歌詞をスペイン語に置き換えるとき、何度もぶちあたった壁の正体は、まさにその部分だったのだ。

『ベンチに座る
ハムカツサンドを食べる
ああカツなんて
パン粉で揚げたものを、またパンではさむなんて!』
(ハムカツサンド)
この、『はさむなんて!』の『なんて!』。
それから、

『日のひかり
君の命まで吸い取りそうに照りつけるのに
赤い土、遠い声
これが21世紀なんて』
(旅人眠る)

この、『のに』と『なんて』の、’係り結び’のようでいて、そうでもなく、でも情緒としては係り結びな感じ、とか、いろいろ。

そういう感覚的なことを云いたいとき、できるだけ言葉少なく、想像を喚起させる余白を残しつつ、でもぴたりと表現したい。けども、日本語のような融通性のない場合、カンケーダイメーシとか、いっぱい使わなくちゃならなくて、なんだか説明的な云い回しになってしまう。しかも、その云い回しが、向こうのネイティブがどのくらい説明的と感じるかは、私には推し量れない。なぜならひとえに、それが異国語だから。
いままで、日本語での日本語的情緒表現は、云ってみればあちらの貨幣感覚に置き換えてから、あちらの通貨に両替されてきた(らしい)。そのくらいの、つまり’目減り’込みでないと、異国の人は、誰も何も理解しなかった(そうだ)。だってたとえば、人生(life, vida)が、生活(life, vida)とおんなじなんだから!
けども、今ではこんなに日本のアニメや、その他の文化が浸透してきているのだから、たとえば『ハムカツ』は『Hamukatsu』としてみた。『行き交う電車 ツバメとツバメ』も、文字通りツバメとツバメ、としてみた。

数人のエキスパートにも意見を求めたのである。やれやれ知らねェよ、という顔をする向きもいらした。そりゃそうだ、エキスパートにとったって、かなりメンドクサイ質問だったろう。エキスパートなだけに、いい加減なこと云えないし。因みにこれは、ネイティブ日本人のスペイン語専門家じゃなきゃ答えられないことだ。皆さんそれぞれ、プライドにかけて、丁寧にお答え下さった。

エキスパートたちからは、
‘電車が交差します、ツバメたちも行き交います’
と云わなければ伝わらないよ、なぜならそういう表現は存在しないから、とのご指摘をいただいた。
もちろん、スペイン語でも数少ない言葉で上手く感覚的なことを表した詩の名作はたくさんあるが、そもそも表現の組み立て方が日本語とは違うというわけだ。 そこで一旦はそのように直したが、やはり最終的に、ツバメとツバメ、に戻した。 アタシの詩だ!アタシの、アタシの母国語による、アタシのための詩だ、そのことの民主性が、ひいてはみんなの為になるのだ!と、なんだか知らないが固く信じ。

正月、福島センセイの本を読まなかったら、ワタシは自分が何をしたかということを、こんなふうに回想することもなく、ただただ坂を転がるようにして、新たな春夏秋冬を始めたことだろう。

つまり、すご~い高度なことを、アタシはやろうとし、出来についてはたとえば福島センセイなら何と云うかは別として、やっちゃったのである。アタシは勇敢だった、といいたいのである。

外国語を習得するというのは、相手が何を言っているか深く知るためでもあるが、やっぱしこれからは、こちらの感覚についても、多少の両替は必要としても ‘目減りの激しい両替’なしで表現してみたいものだ、難しくても。そして、’それぞれの通貨’でのやりとりを、楽しむ余裕が双方に欲しい。

けども考えたら、同じ日本語ネイティブとだって、意の通わないことはしょっちゅうある。そうなれば手数料を多く払っても両替できない。同じ母国語なら分かり合えるというなら、ワタシはとっくに紅白にでてるだろう。
はじめから、伝わらないものと捨てておけば、もし伝わったときの喜びも大きかろう。(なんか、ヤサクレたシメになちゃったなァ)

それにしても、エキスパート様たちの手もわずらわせ、なにより自分が苦労した訳なのだから、ジャケットのどこかに『全詞スペイン語訳付』くらい、書いておけばよかったかね。

ともあれ、ことしもよろしくお願い申し上げます。

 

 

<61>