<68>雨の日の思い出

<68>雨の日の思い出

セルバンテス(ドン・キホーテの作者)ってひとは、子供のころからすごい読書家で、道に紙切れが落っこちていても、拾って読んだらしい。

わたしもかつて、電車の中で紙切れを拾って読んだことがある。

ちょうど今日のような雨の日、そのころ住んでいたアパートに帰る途中、競輪場へ向かう人たちが、往きに復りにと、さんざん一日乗り降りした電車の、雨で濡れた泥のこすれた床の上に、名刺より少し大きいくらいの厚紙が落ちていた。
反射的に拾ってしまったのは、その文字が万年筆で書かれていたからだと思う。自分が万年筆で書くとき、内容は他愛なくても、書くことそのものを少し意識的にする時が多い。だから、それが万年筆で書かれているというだけで、何か意味を感じ取ってしまった。万年筆ならば、濡れれば字がにじんでしまう。いけない、とふと、拾い上げた。そして読んで、ゾクッとした。

あんちゃん、どんなに貧乏しても
心まで乞食になるな
火付け、恐喝、暴力、人殺し
そんなのはクズのやることだ
ぜったいにやるな、胸張って生きろ

それを読んでまず、つい周囲を見回してしまった。落とし主を探して、ではなく、これを読んでしまった私に、誰かが気づいてないだろうか、と。見知らぬどっかのひとの、暗ーく深ーい’秘密の穴’の蓋を、うっかり開けて見ちゃった自分を、誰にも目撃されてないか、と。 その’秘密の穴’の持ち主、つまりこの『手紙』が宛てられた人、あんちゃんには、よっぽどの事態が起きているらしかった。
そして、これを書いた人、というか、書かずにいられなかった人は、そのよっぽどの事態を、くみ取ってしまったに違いなかった。
・・・なのに、それを落っことすなんて!

・・・落っことすくらいだから、あるいは、何かの映画や本で読んで、いい言葉だ、とか思い、書き留めただけなのかもしれない。もしくは、あんちゃんが、書き手の熱い思いもよそに、競輪に行って酔っぱらってしまい、落としたのかもしれない。
けど、どちらにせよ、その緊迫感からいって、泥だらけの京王線支線の床に置き去りにされ、あげく、たくさんの濡れたクツに踏みつけられていてはダメだ、と思った。

その紙切れを、とりあえず家に持って帰った私は、どうしたものか、しばらく机の上に置いて考えた。
私はビンボーだったけど(今もですが)、火付けや人殺しは、考えたことがなかった。恐喝も、だ。だから、自分へのメッセージだと生真面目に受け取ったりは、さすがにしなかったが、けれども胸を張って生きろ、というのは、ガッツンときた。自分もあんちゃんと書き手の抱えていた暗い秘密を、わざわざ一緒に背負い込むような気がしたし、当時はやりの風水とかでは、こういうのを拾って持ち込むなんぞ、とんでもないと云うかもしれなかったが(いわゆる『女子力』ってことで云えば、こんなのひろって持ち込んだら、低下どころか消滅だ)、けど、捨てられなかった。

なので、自宅アパートのトイレの窓の内側にかけたスダレに、クリップで留めておくことにした。以来、トイレのたびにこれを目にした。用を足しつつ。
それから4年ほどして、引っ越すときにそれを捨てた。
あんちゃんも、書いた人も、想像もつかない顛末だろう。

 

 

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