<19>小物に埋もれて

<19>小物に埋もれて

部屋を見渡す。
何やかや、モノがたくさんある。このせまい住処に、モノはどんどんやってくる。
もちろん必要なもの、縁有るものたちではあるが、そのせいで肝心なものがいざと云う時見つからない。探すと部屋が荒れ、大量のホコリが出、機材にかかるといけないと、気を使う。そいつらのせいで、より部屋がせまくなり、当の本人(家賃を払っている本人が!)が床で柔軟体操するにも遠慮がちである。
因にライブ会場でのアンケートや激励のお手紙などはすべて保管している。ダンボール一杯になると実家に送っている(項目として、財産のくくりに入るから)。

でも、私だけじゃない。
知人の音楽ライターの人は、資料のCD達だけで住居の半分くらいを占拠され、自分の書いた文章がのった雑誌等も出版者から送られて来て、たまりゆく一方で、それらの資料が何年もたってから必要になることもあるが、何よりひとつひとつ情念をこめてつくられた作品たちをむげに扱うことに心が痛み(職業としての倫理感もあり)、捨てるわけにも売るわけにもいかず、さらに都内某所にそのための倉庫を借りていたが、そのレンタル料が月々、私の住まいの家賃と同額とのこと。
ただ、CDなどは聴かれてなんぼ、というのもあって、ただ保管するのもベストではなく、老後は『音楽喫茶』でもやろうかなあ、とつぶやく。

知人の作家は、『世界の小物』をその著書の中でたくさん写真入りで登場させていて、ご自分の『グッズ』としてもマッチやらしおりやらコースターやら、コマゴマとしたものを作っている。一度その人の住まいにお邪魔したが、都心の豪華マンションに住まうも、そのスペースの10分の9を(!)それらの在庫やら、以前扱った世界の小物だとかに占拠され、全面窓というのにダンボール類が光を遮り、晴れた昼間も薄暗く、お茶をごちそうになるにも座るところさえなかった。家主ですら玄関からお茶を入れにキッチンに向かうのに、跨いだり避けたり飛び越えたりであった。

都会に住まう、自宅を仕事場にする、というのはそういうことなのだな、と共感をこめてしみじみ思った。その人は、そう唱ってこそいないが、『物への愛』がテーマであるので(財産と思っているので)、さして苦にはしていないのかも知れないし、はたから見る分にはユニークな暮らしだが、私にはこういう圧迫感は耐えられない、こんな暮らしはとうてい無理だ、とも思った。

自宅が仕事場、というのは、満員電車に乗らなくてもいいとか、通勤時間という拘束がない、とか利点もあるが、いつなんどきでも仕事のモノが身の回りにちらついていて、オンとオフの境目がなくなり、その見た目と精神的な圧迫感はかなりのものだ。だいたいそういう人は個人で仕事をしているから、自分がやんなきゃナッシングであるから、余計にである。いや、うんと儲かって広~いところにでも住めば何にも問題ないんだけど。
自宅が仕事場でない人でも、多かれ少なかれ同じだろう。モノは増えるようになっている。ほんとに要るのか要らないのか、なんていちいち考えても、『増える現象』にはとうてい追い付けない。

私が旅に出ていつもすることのひとつに、モノを捨てる、がある。と云ってもさんざ使い古したものがほとんどだけど。旅に出るのが好きなのはそういう理由もあるのかもしれない。見なれた雑物が視界にない土地で、ボロボロになった洋服等を捨てる時、一種の『おとむらい』気分があって、何か私の中の雑物もそれと同時に昇華される。そうして軽くペッチャンコのカバンで家路につく。
要するに、私はモノを捨てられないのだ。
捨てるなりの理由と時期と儀式が揃わないと。罪悪感とまでは云わないが、『万物に霊が宿る』という神道的考えが、根深くしみついているのだと思う。現代的に云えば、リフレッシュの下手な人、貧乏性、こだわりヤボ、要領の悪い人、という言葉があてはまるのかもしれないけど。

 

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