<16>冬のはじまり
- 2003.11.14
- column
先日、ひさしぶりに『ずる休み』をした。最後にしたのは高校生の頃だったように思う。
私は学校が嫌いで、毎日通わなければならないのが本当に苦痛だった。いっそ、わかりやすいグレ方でもしていたら、もう少し教育者達にも可愛がっていただけたかもしれないが、いわゆる『かまいたくなる不良』という風ではなかった。
なんだかわからないが、厭世感をいつもまといつつ、それでいてなんだか笑っちゃうなあ、という気分で生きていた、ような記憶がある。教育者や同級生に愛されたとしても、多分あの気性的な浮遊感は拭えなかっただろうが。
メランコリーは冬場にいっそう高まる。
今でも9月10月はとても好きで、空気がすっきりして息もしやすく、旅にも出たくなる頃で、気力体力共にもっとも充実するときであるが、一転、11月に入ってしまうとやるせなくてしかたない。気力体力が一気に虚となり、一仕事すると立ち上がれないほど疲労する。
『日ざしと心』のこの不思議な関係は一生のテーマでもある。というわけで、友人との約束を、たくさん謝って、ずる休みした。今度しるこでも奢ろう。
ところが、ここ数年で、11月の愉しみを見つけた。フィギュアスケート。やるのじゃなくて見るやつ。11月はスケートシーズンが始まる。
フィギュアスケートは歌みたいだ、といつも思う。
自らのせいいっぱいの技術以上のモチベーションやプラスアルファが命で、それを支える体力がなくてはいけない。技術があればあるほどそれ以上の、技に落ちない、なにか、強烈な喜びのようなものが必要とされる。体力といっても、それもいわゆる数字で表せるものから、どこからくるのだかよくわからない精神力まで、いろいろ。
表現力、品性、というのが問われる。
テレビでフィギュアスケートを見ていると、特にここ何年かのそれぞれの選手の来し方を見てきた故に、その変化が物語るそれぞれの人生に、容易に涙がでてしまう。
芸は身を助ける、というけれど、この言葉は意義深い。
まわりの教育者たちに魅力を感じられないなどと云う、すでに子供の頃から可愛気のない人間にとって、謙虚さを保ちつづけられる対象はもはや『芸』しかないとしたら、『芸』こそ人生の落とし穴にはまらぬように、天があたえてくれた杖ではないか?
きのう夜のテレビに出ていた、村主章枝選手も、これほど愛するものを与えてくれた天に感謝する、と語っていた。若いけれど、年令の問題じゃない。謙虚さを保ち続けるには、いつも自分で薪をくべていないといけない。えらいなあ。
というわけで、フィギュアスケートを見るといつも、あたしも薪をくべるだよ、と自らのメランコリーに向かって語りかけたりしてしまう。
今シーズンもまた、選手それぞれベストのコンディションで悔いのない演技ができますよう、陰ながら願っている。
いや、陰ながらなんて云ってないで、今年こそ生で見ようと、いろいろチケットの手配などしていたが、諸事情でどうなるかわからない。
冬のはじまり。
知人の男性に(オジサン、画家)、11月生まれの人がいるが、『千秋』という名である。その名をつけたご両親の気持ちが、伝わってくるような季節である。
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