<30>ひそかに

<30>ひそかに

10月のある日。
このところ忙しくてバタバタしていて、このままだとどうにかなってしまう、と思い、ぜいたくな1日を密かに用意しておいた。
先月のはじめ、1万2000円のチケットを買った。1万2000円。とある男子に一緒に行かないか、と誘ったが、『行ってみましょうかね』と返事をもらったときには、もう売り切れていた。
誰にも会わない日、というのも新鮮でいいな、と、私は向かったのだ、フィギュアスケート観戦へと。

氷のリンクはとっても寒い。前日まで南国・沖縄で汗ダラダラしていた身には、なんだか自分が浦島太郎みたいに思えた。ああ、寒いってこういうことだっけな、と、思った。
私がフィギュアスケートファンであることは、別に隠していない。でも何となく『私のようなものが』『意外にもねえ』という自意識がある。どういう心理か、誰も何も云ってないのに。
とまれ、この、誰も何とも思ってないのに何となくひとり気恥ずかしくワクワクしてしまう、1万いくらも払って行く喜び、は格別だ。しかも怒濤のスケジュールを遂げた後とあれば。

今まで生でフィギュアスケートを見たことは何度かある。奇特な方がチケットを取って下さりその度楽しませていただいた。でもそれらはエキシビジョンで、競技を見たことはなかった。今回のが特別なのは、競技でしかも国際大会というところだ。

選手ってどの人も素晴らしい。というか、どんな人かは知らないが、これをやり続けていることがそもそもハンパなことじゃないだろうから、その心の変遷いろいろたるや、想像しただけで十分尊敬に値する、と考える。

なんだけど、もうここ何年かずっと、私が特に密かに身悶えして応援するのは、『荒川静香選手』である。
彼女が滑ると、ふと息が止りそうな静けさがある。こういうのを『優雅』というんだろうな、と私は思う。
この人は、調子が良くても悪くても表情を変えず、淡々としている。色白の長い手足、そしてあの白目の白さ!キュッとした黒目とのバランス!
ちょうど三島由紀夫の『仮面の告白』を読んでいたのもあって、私のこの憧れも、彼が『近江くん』に抱いたものと似ているかも、など思ったりして。よけいワクワク。

荒川選手が一番会場の拍手が大きかったと思うが、優勝はロシアの選手だった。荒川氏は2位。前に座っていたオバサンたちも、荒川がいかに素敵か話し合っていて、しきりに1位じゃないことを残念がっていた。
なんだけど荒川さんは別にいつもと同じ表情をしていた。いや、それは腹の中は悔しさに沸き返ってたりすると思います。選手ですからね。彼女の2006年トリノオリンピック金メダルを信じて疑わぬ私には、そうあってくれなきゃ困る。

ちなみに、今まで男子の試合にはあんまり興味がなかったが、この日は全体的には男子の方が面白かった。
そうなってくると、それはそれでまた1万いくらも出して試合を見に行ってしまうだろう。
いずれにせよ、世を拗ねて生きて来た私が、素直にスポーツに感動するなんて、オリンピックだ何だって興奮するなんて、すごいなあ、と、誰も何も云ってはいないが、それはそれでまた密かにワクワクするのだ。

 

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