<38>リスキー・スズキ

<38>リスキー・スズキ

住処を探している。もう長い。去年の春から探している。
たくさんたくさん見て、ここに住みたい、ここに住む自分が想像できる、と思ったところは一ケ所しかなかった。でもそこは築24年。借りるならいいけど、築24年を買えば苦労することは目に見えている。それがイヤで持ち主も売ってしまいたいのだろう。あの頃のものはコンクリートも薄いから、ピアノなんか置いたら防音にいくらかかるか知れない。

思えば生まれてはじめて、住処を持つ、ということ、食べたり寝たり服を着たりと同じようにジンルイに基本的なことを、具体的に考えた。若いうちにショーライセッケイなるものを描いておおかたそれに沿ってゆく人もいるようだけど、私はこれまでそれどころではなかった。売れて忙しいのだったらひと段落してから売れたお金でポン、と買えばいいのだろうけど、もっと違うことに忙しかった。何に、と一言で云えぬところがやるせない。強いて云うなら、哲学することか。だからポン、とやれない。

そういうことにうつつを抜かしてきた私は、ここへ来て、いわゆる高学歴高収入とか、エリートである価値とか、昔プロダクションに云われた、『まず、売れたいのかそうでないのかを決めて、5年後の自分について作文を提出しなさい』というニホン語の意味が、おぼろげながらわかってきた。なるほど、そういう目で見れば確かにそういう発想になるよな、と。
だけども、それに気付いた今となっては、またその価値観も流行らない。というか、私の中では一度も流行ったことがない。価値観は過去のものだけど、でもまァ、いまだその残骸によって世の中は動いていると見受けられる。
そういう仕組みの中、私のようなものがローンを組むにはすごい金利になってしまう。貸す側にとってつまり私はリスキーなヒトだから。

今まで縁のなかった、ブログというのもたまには覗くようになった。
マンションか戸建てか。中古か新築か。結局、賃貸なのか買うべきなのか。騒音はどこまで許せるのかを話し合うところでは、恐ろしいバリゾウゴンが飛び交っていた。楽器やる人って、あんなに嫌われるんだ・・・。
まア、いろんなことを話し合っているけど、ほとんどが結局は、『自分はどうやって死ぬのか』というのをヒトは知りたいのだ、と感じる。でもそこまでショーライセッケイしなきゃならないのかよ?という『悲鳴』とも感じる。
どっちを選んでも、建物も人もいつか死んでしまう。介護も必要になる。その時どうするのか。その時のことを想定してどうしておいたら、気分がいいか、身軽か。人生は意外とあっという間らしい。そのつかの間をせっせせっせと支払いに明け暮れ、所有し維持する責任をずうっと背負っていかなきゃいけない。もちろんちょっとは喜びもあるけれど。・・・そんな話が展開されている。

このごろ、一生賃貸という言葉をよく聞く。賃貸は所有じゃなくて消費だ。消費って、やっぱりラクだ。イヤなら捨てればいい。消費者に責任はない。 他人事のように云ってる私も、書き込みはしないまでも渦中の人だ。ああいうのを読んで、ホントにそうだ、とか、こういう人もいるんだな、とか思ったりしているうちだんだん、そもそも人生って何なんだ、という、今までさんざん考えてきて、一度たりとも天から答えが降って来たことなどないことを、また考えている。
それが今までいそしんで来たワタクシの哲学の結論だと思うと、やはりそんなことよか、5年後の私は若い層をターゲットに100万枚売れる歌手になっています500万枚はムリだけど、とローン返済計画書のノリで作文を提出しておけば良かっただろうか。

けども、そうやってまで欲しいと思うような新築マンションは、見た限りひとつもなかった。白いビニルクロスの壁に乱視の目がチカチカするなあ、と思ったくらいだ。

もちろん予算に上限がなかったら何も問題ない話である。
実は世の中の問題の8割がたはたったそれだけのことであろうのがまた、何とも。

まあいいや。金さえあれば8割が片付くのに残念ですわ、と思っていた方が幸せだ。8割をポンと片付けてしまったら、金ですら解決できない2割の難問が目の前にそびえるのみだろう。

それに、なんて事はない、結局はみんな、自分はどうすればソンをしないで済むのか、必死で皮算用をしてるだけのことである。売る人も買う人も、貸す人も借りる人も、ブログを書く人も読む人も。タヌキさまとキツネさまが木の葉並べてイッセのセをしてるだけのことだ。可愛いじゃないか。リスキーな我が身の愛おしいこと。

 

 

<38>