<78>アラブの本

<78>アラブの本

この頃読んだ本で面白かったものを、ひとりごとのつもりで書いてみようと思う。
人の作品を、ケナスはもちろんホメルも、そもそも『評価』することにちょっと抵抗があったので、そういうことは人に言ったことが、実はあまりない。
けどそう、ひとりごとのつもりで、書いてみようと思う。

この頃読んだのは、アラブ関係の本ばっかし。

●小滝透『さらばネフドの嵐 ー イスラームの神とサウジアラビア留学日本人』 (1991年第三書館)

ネフドというのは、サウジアラビアのネフド砂漠のこと。映画『アラビアのロレンス』の中でネフドのことを『最悪の難所』という表現があった。ロレンスがネフド越えするシーンで、ここぞとばかり地獄の灼熱が強調され、人が流砂に飲まれる(もちろん、死ぬ、を意味する)。流砂というのは、実際のところ底がそんなに深くなく、飲まれても死んでしまう確率は、そう高くはないらしい。けれど、いわゆる私たちがイメージとして持っている、甘美かつ恐ろしい砂世界の、代名詞のようなところが、つまりネフドだ。
著者の小滝さんという人が若かりし頃、そのネフドの地、サウジアラビアの大学に留学した。アラブを知るにつれ、あふれてきた葛藤と愛着のモヤモヤが、『今』の視点でリアルに、冷静に、描かれているエッセイ。

そう、モヤモヤを表現するというのは、私のテーマでもある。モヤモヤの先に一点『モヤモヤが晴れる兆し』をそれとなく提示したいと、密かに願ってもいるのだけど、それには未来へのちゃんとしたビジョンがないと、モヤモヤはモヤモヤのままだ。けど、世界の難しすぎる諸問題は、個人の(というか私の)ビジョンだけではとうてい追っつかない。小滝さんはじめ、ジャーナリストという仕事は『兆し』を示す役割も担っているのかもしれないが、 『兆し』だけが示されたものには、私などはあまり魅力を感じない。『体験から出た情緒的モヤモヤ』と一緒に提示されてこそ、『兆し』の価値を感じる。…平たく言ってしまえば、葛藤する姿に情がうつるってことだ。そんなシンプルなことだが、世界は情で動く、というのは、古代から変わっていない。

●重信メイ『秘密 ー パレスチナから桜の国へ 母と私の28年』(2002年講談社)

日本赤軍リーダー重信房子の娘さん。レバノンで生まれて、28歳まで無国籍、家族情報は極秘にして生きてきたという。その後日本に帰化し 日本国籍を取得した。これはちょうどその頃のエッセイで、幼い頃から母親に聞かされていた、日本という国の国花『桜』を初めてみたときの感動、そして、折れて落ちていた桜のひと枝を拾って獄中の母親を訪ねるシーンなどは、やはり印象的だ。獄中から母親が手紙で彼女に送った短歌がせつない。
今はジャーナリストとして活動中とのことだが、今年はじめテレビで何度も放送されていたISIS関連の番組でも一度も彼女を見たことがない。 やはりお母さんがあの人だからだろうか、などとも考えたが、今そもそも日本にはいないのかもしれない。
当時、日本語を勉強中とのことだったので、もしかしたら彼女の日本語を誰かがサポートしていたのかもしれないが、私は彼女の日本語が好きだ。わかりやすい。
あとがきに『共存は自然発生的には生まれない。共存を求めようとする意思が、実態を育ててゆく。』と書かれていた。印象的だ。

●ファーティマ松本『サウジアラビアでマッシャアラー! 嫁いでみたアラブの国の不思議体験』(2013年ころから出版)

上の二つに比べて、軽い感じで読めるエッセイ。でも。内容が軽いわけではない。埼玉で育ったバブル世代の女がサウジアラビアに嫁に行く、 ということ自体、軽く済むことであるわけがない。今のアラブのリアルな生活を、現地で7人の子供を産み、いろいろありながらも繊細かつタフに生活しているのがアッパレだ。アラブに嫁に行くと言ったって、サウジアラビアとなると他のアラブ諸国とはちょっと様子が違う。オイルマネーでとても豊かではあるけれど、なにしろ聖地メッカがあるところ。戒律は厳しく、女となればなおさらの土地柄。
あまり世間の書評というのを読んだことがないが、このエッセイへのいわゆる『一般のくちこみ』みたいなものを見てみると、『非常に面白いが、(著者に)イスラム教への強い傾倒が見られ、それがちょっと』というものが2、3あったような気がする。けれど私は逆にそこが面白いと思った。逆にそここそ、キモだとも思った。軽いエッセイです、とほのめかすような装丁でありながら、そこまで書いてあることに好感を持った。著者はもともとアメリカに留学し、そこでサウジアラビア人の今のご主人と出会ったそうだが、そのときすでに『信仰すべきもの』を探していたという。そしてそれを能動的に手にした、ということが、何か清々しく感じられる。女が何かと不自由な社会で、リアルな結婚生活の中で、コーランが拠り所になっている、そのことを伝えたい。健康的でシンプルな欲求を率直に書いた、という印象だ。

●サルワ・アル・ネイミ『蜜の証拠』(2010年講談社)

図書館司書のシリア人女性が書いた『性愛の書』。
まず、アラブ人でしかも女性、それが性愛について書くこと自体が驚きだ。何か社会情勢とか環境とかそういうこと抜きに、シンプルに自分のセクシャリティを謳歌し、それを別に大げさでもなく、ユーモラスにさらりと書いている。けど、この人はフランスに長くいたらしく、シリアとフランスという『下地の振り幅』あってこその文章とも思える。そういう意味ではやはりもろに『環境』の影響下にはあるのだろうけど。きっかけは働いている図書館で、アラブの古典性愛書に出会ったことだそう。
私が、アラブといえばパッとイメージするのは『エロチック』という印象。もちろん街にはそんな看板など一切ないし、街中で女は素肌はもちろん、自分の姿を晒すことも極力さけている。すれ違う男性は旅行者でも女とは目を合わせない。でも知る限りアラブのあらゆる文化が官能的だ、文字すら。なんというか、時空感覚が遠くて長い。
ベールの下には一体何が繰り広げられているんだろう、とずっと『おあずけ』を食らってきた人が、いわゆるアラビアに夢を見てしまう人なのだろうが、ベールは少しずつはがされる運命にある。はがされてゆく過程は見逃せない。でもさて、はがされ切ったら、アラビアの夢は消え去るか?…そんな呑気なこと言ってる間に、天変地異などやってきて、自分が消え去ってしまうかもしれない。

●ジャーレ『古鏡の沈黙 立憲革命期のあるムスリム女性の叫び』(2012年未知谷)

『蜜の証拠』の対極にあるかもしれない。対極にあって、もしかしたら同質かもしれない。自らのセクシュアリティに、知をもって向き合う点で。でも、切実さにおいて、全く別だ。
1884年、革命期のイラン生まれの女性の詩集。位の高い家に生まれ、当時イランの女性としては珍しく教育を受けた人とのこと。そのほとんどが、アラブの地に女と生まれ、自由をもたず、夫の性の道具としてしか存在しない自らの人生を嘆く(力強く嘆いている)詩ばかり。私は高度成長期の日本に生まれたのにもかかわらず、そして夫など持ったこともないが、なぜかこの人の言わんとすることが、我が事のように感じられる (それだけこの詩に表現力がある、ということなのだろう)。
この本を手に取ったきっかけは、さもない。表紙に小さく切り取られた足踏みミシンの写真だった。手にとって、なんと痛々しい詩たちだろうと思いつつ読み進むと、一篇だけ、何か出口の光を予感させる詩があって、それは『ねえシンガーのミシンよ…』で始まる。

その文明的機器の素晴らしさに驚愕しつつ、ミシンに向かって、

『お前には頭がないけれど、お前が刻々と明らかにする
考え深い頭脳の思慮が見てとれる』

と語りかけている。そしてその部品の一つに

『こんなふうに飛び跳ねて大騒ぎをするなんて』

と、子供のように語りかけているのだ、あの、針を取り付けて上下するあの部分を!

この詩集の訳者たちも相当の腕前なのだろうけど(詩集って特に難しい)、その唯一の希望の象徴『ミシン』を表紙に持ってきたこと(しかも、小さく、中央に!)に気づいたとき、つい唸ってしまった。ジャーレさんはとっくに亡くなっているだろうが、時代を経た今でも、似たような思いをそこらじゅうで強いられている女が(そして多分男も、さらに悲惨なことに子供も。ジャーレさんだって16だったのだ)たくさんいる。教育を受ける機会がなく、表現手段をもたず、自分の存在意義など考える余地もない者たちの分まで、重い願いが感じ取れる。

内容は重たいが、読んでいるとまた、なぜか川底のようなところから、その重さ分のエネルギーが湧いてくるのも不思議だ。

 

追記

5月17日、日本の作家、車谷長吉さんが亡くなったという。寂しい。もちろん会ったこともなく、ただファンの一人だったが、(ファンだか らこその心理で)勝手にチョーキツと呼んでいた。チョーキツ好きだったなァ…。

 

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