<86>あいもかわらず小泉八雲

<86>あいもかわらず小泉八雲

 この上なく妙な一年、2020年が終わろうとしている。
そのことにもっと『ひと区切り感』の欲しいところだが、人ともあまり会わない今、すっかり『こよみ感覚』も狂ってしまい、それほど感慨も湧いてこないのが正直なところだ。
 もしかして知らないうちに私は、もうパラレルワールドに入ってしまったのか?7月とかに?

 とはいえ、今年最後のライブは充足感を得て、いい終わりができたからよかった。
そのあとは、このところめっきり読まなくなった『本』てものを、久々じっくり読んでいる。

 

 あいもかわらず、小泉八雲。
そのうち読もう、とずっと思ってた『仏領西インド諸島の二年間』。当時八雲が滞在したマルティニークにまつわるエッセイ、創作など混じえた上・下巻。
 そして八雲のひ孫・小泉凡さんの『怪談四代記 小泉八雲のいたずら』。八雲に関する本はけっこう読んできたつもりだったが、初めて知ることも多く、八雲のいたずらにちがいない、その亡き後の不思議な出来事、身内ならではの逸話が、さりげなくもさすがの教養と文体で愉快に綴られていた。

 このあと読んだのが、『ラフカディオ・ハーン/工藤美代子』。
これが、おそらく今まで読んだ第三者による八雲論の中で、いちばんしっくり腑に落ちた。かつて、この著者の、まったく違うテーマ(それも『性』)の本を読んで感激した。感覚的なことを平易な言葉に置き換えるのに、なんて長けた人がいるものかと思った。こちらの思いが整理されるので、読後スッキリする。

 この本もそうだった。
まず始まりに八雲の言葉を引用している。1878年(八雲28歳)に父と慕う人に書いた手紙の一節。最近はライブで『片目の世界』を歌うとき、朗読させてもらっている部分だ。

 

ー『自分が何をしたいのか、はっきりとわかっています。
  ー老ぼれて、ぼけて白髪になって死ぬまで、
   あちこちを永遠にさまようことー
 ただただ好きなところをさすらって、自分を自分だけにゆだね、
 誰をもわずらわさないことです。
 しかしそれはできないことです。』ー

 

 あらためてこれ、なんて心をえぐる一節だろう。放浪好きな人は痛いほど共感するだろう。旅をテーマに歌うことが多い私の、その歌を熱心に聞いてくれる人の中にも、旅には、ましてや漂白には興味がない、という人も意外と多い。そういう人でも、『自分を自分だけにゆだね、誰をもわずらわさないこと』というところで、いわんとしてることの見当はつくかと思う。この本は冒頭にこれを持ってきたところですでに、作者の意図が読み手に反響してくる。
 八雲の本分(?)である『漂白』を取りあげる評論家は多けれど、我がこととして見つめた上での冷静さ。つい何度もうなづきながら最後まで読んだ。

 

 10年以上まえ、『ラフカディオ・ハーン/太田雄三』を読んだことがある。
工藤さん(著者、と書くべきなんだろうけど、区別のためにも、まるで知り合いみたいに呼ばせてもらおう)のと、まァ固有名そのものだから、同じタイトルではあるが、それが、八雲の悪口ばかり書いてある。帯には『没後90年のいまハーン神話を解体する!』とのキャッチも入っていて、そっからして『野党感』マンマンだ。実家にあったから何気なく読み始めたが、あまりに悪口ばかりだから、すでに文豪として確立してる人に、あ、こーいうこと書くんだ?と思ったのは新鮮で、ついつい付箋を貼ったり、線を引いたり書き込んだりで、汚い本になってしまった。悪口も研究の末に看板しょって書かれたなら立派な『論文作品』。作品である限り、八雲と同じ土俵でスモウ取ってるんだから文句はない。だけどそのチクチク感に、結構なインパクトとモヤモヤが長く残った(そのせいで、ちょっとは八雲についていいことも書いてあったかもしれないが、私のアタマのなかでは、オール悪口、みたいな印象になっている)。

 で、工藤さんの『ラフカディオ・ハーン』は、まさにそのチクチクポイントをサラッとひっくり返してくれたので、私も気が晴れた。もちろん太田さんに対抗して書かれた本では全くない。

 じゃ、なにがチクチクしてたかというと、これは太田さんのみならず、八雲と膨大な手紙のやりとりのあった日本学者チェンバレンさんや、一部の評論家の人たちに共通してる意見らしいが、つまりめちゃくちゃ乱暴に言っちゃうと『八雲は思い込みだけで書いている』という見解だ。

 それについて、工藤さんは書いている(いいのかな、引用させてもらおう)。

 

ー私はなぜハーンが浦島にそれほどまでに惹かれたかがわかるような気がするのです。浦島は『実相に無知』なまま竜宮城で夢のように楽しい時間をすごしました。ハーンもまたそうありたいと思ったのです。自分が、日本に対して『心理的に近視眼』であると、ハーンは十分承知していました。そして、幸せとは、そういう状態においてしか味わえないものだと気づいていたのです。
 そうすると、チェンバレンの『彼(ハーン)は細部を非常に明確に観察したが、全体的にそれらを理解できなかった』という批判は、全く的外れということになります。なぜなら、初めからハーンは、全体を見ようなどとは思っていなかったからです。(中略)だから、自分の見たいものだけを見て、書きたいものだけを書きました。その徹底ぶりは見事というほかありません。

(中略)

 そして今、一世紀に近い月日が流れてみると、もしかしたら、ハーンがその作品の中で描き出した『日本』と呼ばれる国など初めから存在していなかったのかもしれないという気すらします。存在したのは、ハーンがじっと目を近づけて観察して書き残した、ある空間です。それが連続して存在しただけだったのかもしれません。
 ただ、不思議なのは、私たちが実在した日本よりも、ハーンが作り出した世界のなかに息づく日本と日本人の方に、より強い愛着や懐かしさを覚えてしまうことです。ー

 

 幸せとは『心理的に近視眼』な状態においてしか味わえないもの!ホントにそうだと私も思う。工藤さんは、八雲の著作は芸術作品に他ならず、である限りは作者のデフォルメが入って当然のことだ、という旨も書いている。

 チェンバレンさんや太田さんの言うように、何かを『全体的に理解する』って、考えたらありえないことだ。ひとは自分の立ち位置と視力(視機能)でしかモノを見ることができないんだから、近似値とか最大公約数ってものはまァあるが、そこまでの話だ。それを突き詰めようとしたら、どうしても自分の矛盾を自分で突くループにはまって自由を失う。だったら、自分の目の見たままノビノビやったほうがいいに決まってる。そこに妙が現れれば、それが芸だ。

 思えばシンプルな話だが、そのシンプルなことに、工藤さんのようにわかりやすい言葉で説得力を持たせるのはなかなか難しい。

 

 冒頭での八雲の引用のあと、こうも書いている。

 

ーつまり、当時(産業革命後)の人々はゆきづまった自分の精神が、空間を移動させることによって救われるという希望を持ったようなのです。もちろん、現代の人間は、現実がそれほど単純ではないことを知っています。ジェット機に乗れば、地球上のどこにでも自在に飛べますが、だからといって問題は何一つ解決しないのを承知しています。しかし、すくなくともハーンの時代は、空間の制御によって得られる精神の安寧を信じた節があります。ー

 

 これもなんだか胸と背中の間がギュッとする言葉だ。旅に救いなどないことを、分かっているのにあらためて言われると。ただ、放浪欲求の切実さを分かっている人から言われたということは救いだ。

 

 その旅に、また出られる日がくるのはいつのことだろう。
『ただただ好きなところをさすらって、自分を自分だけにゆだね、
誰をもわずらわさないことです。しかしそれはできないことです。』
 あらためてその通り。このご時世の今であっても、なくても。

 さて、太田さんの本だが、ひさびさ開いてみると、ハーンのことを『スケッチ作家』と揶揄している。そのスタイルによって構成力の乏しさなどの欠点を目立たなくしている、と。ちょっと調べたら今もご存命の方のよう。呑んだら結構面白かったりするのかも。
 笑ったのは、当時そこに私が書いたメモに『シンガー・”スケッチ”・ソングライター!!』とあったことだ。
 よし、なら自分はそれで行こう!と思ったんだろう。