<87>海の時間(釣りばなし)

<87>海の時間(釣りばなし)

 釣りをはじめて2年。

 海が遠くて、しょっちゅうは行けない。思いはつのる一方だ。

 

 晴れた空を見ては、ああこんないい天気になるんなら早起きして釣りに行くべきだった。予定がキャンセルされたら、なんだ早く言ってくれれば釣りに行ったのに。スーパーにならぶ魚を見ては、ああ自分で釣ったのに比べてこの子はなんと物憂げな顔、とか。とにかくいつも『釣り目線』で、それがちょっと自分でウザくさえある今日このごろ。2年目くらいが、きっと何でもいちばん楽しいんだろう。いっそ早く飽きてしまいたい。

 

 釣りの何がいいんだろう?
 そうだナ…
 まず、海にいる、ってだけで気分がいい。視界がシンプル。これは大きい。
 そして、ただただ釣りのことしか考えないのがいい。

 

 竿さきの重りが海底に着地したのを感じとり、大海のさ中、自分の釣り針がジッと緊張感を保って獲物を待つ様子を想像しつつ、そして針についたイソメがヒップホップを踊っているのを想像しつつ(動画で見たけどカッコイイんだこれが、踊りだと思うと)、ちょっとずつ深さを変えてゆく。いま海底から何十センチくらいかな?お、このコツコツ餌をつついてるのは誰だ?むっ、今度はガッツン食いついた、フグだな…

 

 そんなあんばいだから、次のライブで何歌おう、とかこないだのライブはあそこが良くなかった、とか、ましてや冷蔵庫に入ってるアレを早く食べなきゃ、とか、コーヒーフィルターを切らしてたな、とか、そんなこと全く考えない。よもや確定申告のことなんか。そこが素晴らしい。

 

 岡にいても、たまにアオイソメのことを考えている。ミミズみたいなアレ。どんな釣りにも万能の餌。最初のころはオキアミを使っていたけど、今はイソメばっかり。
 このアオイソメ、ミステリアスだ。
 魚にとってオキアミが美味しいだろうのは、わかる。あたしもエビが好き。でもイソメがどういう風に美味しいのか、わからない。貝みたい?わからない。
 イソメを触ることにはすぐ慣れた。それを指先でちぎることも。だけど私はミミズは触りたくないし、指先でちぎるのもできない。無害さどころか、その偉さ・ありがたさで名高いミミズでも(いや、そのありがたさ故か)。
 意外とイソメは、ヌルヌルもしてないし臭くもない。そして、なんと血は赤い。まるでヒューマニティーがあるかのようだ。
 そんなわけでついつい『イソメの一生』に思いを馳せてしまう。アタシもほかにすべきことはたくさんあるだろうによ、岡じゃあ。

 

 

 去年の誕生日の前日、釣りに行った。その頃はまだ、釣りにまつわるいろんな事態に対応できなかったので、誰かと一緒に行っていた(釣り師匠が4人くらいいる)。その日、余ったイソメを私がもらって帰った。
 翌日、お友達に誕生日ケーキをたくさんいただいた。たくさんもらったから、ちょこちょこいただきながら数日冷蔵庫で保存していたんだけど、そのケーキの箱のとなりに、ぴったり仲よさそうにイソメも数日並んでいた。
 ケーキとイソメか、と、なんかしみじみし、思わず写メを撮った。

 

 先週、実家の用があって帰省したおり、故郷の海でひとり釣りをした。
 あらためて思った。海が近いってのはなんていいんだ。車を置くスペースにもさほど苦労せず、釣りながら目の届くところにタダで置いておけるのもありがたい。

 

 前回やったときは、ヘダイが釣れて、その美しさに惚れ惚れした。おお、天国は故郷の水面下にあった!と感激した。まさに竜宮城のイメージが脳裏に広がって、恍惚となった。そのヘダイ、まだ小さくはあったけど、さばいてもらったら実に美味しかった。いっぱしのタイの味、濃厚で上品。感動的だった。
 そして今回ひとりの釣行は、場所を4回移動して5時間ねばったあげく、ボウズだった。
 このところわたしはイライラしがちだが、イライラする人は釣りをやるといい、という。まったく引きがない状態を耐え忍んだり、フロロカーボン(テグス)が、見えないわ、うまく結べないわで、イライラしたりもするが、『イラチー』だからこそ釣りをやれってことかもしれない。そして『ボウズってこともあるさ、世の中』と思う練習でもある。

 

 ちなみに、あるときから、自分はこませ(撒き餌)を撒いたり、サビキ(たくさん釣り針をつけること)は好きじゃなく、『ひとつの竿に生き餌のついた針ひとつと、小さめの重りひとつ』っていう地味スタイルが好きだとわかった。イラチーというよりは、イライラするやり方を自ら選んでいるんだ。グミみたいな触感のイソメの形をした疑似餌も売られているが、それじゃ魚に悪い気がする。イソメのヒューマニティを考えると、そして、余ったら冷蔵庫なんかで生きたまま冷やされる憂き目を考えると、疑似餌がいいのかもしれないが。

 

 釣りの『どうにかならんのか!』もある。
 不本意なフグや雑魚など釣れると、リリースせずコンクリートの上に生きたまま日干しにしてしまう人が、たくさんいる(特に故郷でおじさんたちがやってるのをよく見る)。
 こどもの頃、知らないおじさんに『かわいそうだ』と訴えたら、『どうせ戻してやっても弱って死んじゃうし、また掛かってきてメンドウだ』とのことだった(だが、私の釣り師匠たちは、こいつらはリリースしてやれば大丈夫、という。実際、さっと針を抜いて放ってやれば、元気に泳いでどこかへ帰って行く)。さらに残酷なのは(慈悲において引導を渡してやっているつもりなのか)コンクリートに引き上げたそいつらを、おじさんたちは思い切り足で踏みつけて殺していた。そのときの、断末魔の声なのか、物理的に潰れる音なのか、『ギュッ』という短い音が、ずっと耳に残っていた。
 もうひとつ、フロロカーボン(ギターの弦にも代用できるという説も。どのみち、自然に分解されるってことはまずなさそうだ、調べてないけど)の切れっ端や、海中で引っかかってやむなく竿から切り離したハリスなどが、きっと魚や鳥の迷惑になってるに違いない。それが気になる。すでに世界中の海に何兆と沈んでいるだろうが。

 

 かつて、ラマダン(断食中)の紅海(ヨルダン側)で、夜釣りに行ったことがある。
 あの辺の国々は、好きではあるものの、ゴミ捨ての倫理感がまだ遅れていて、また公共の場でのゴミ収集システムが未発達のようで(信号ってものも極端に少なかったし)、人々はやたらに物を道路のみならず海に捨てていた。それはもうひどいありさまで、痛々しかった。
 その、夜の紅海で、同行の知人が必死でイカを釣ろうとしているそばで、私は釣りをやめてゴミ拾いをしていた。だけど、知人は集めたゴミを見て、こーいうものはこーするんだ、と笑いながら海へ投げ入れてしまった。これじゃ、こーいうものはそーしてはいけない、という考えが定着するまで、あと20年かかるな、と思った。
 そんなわけで、2年前までは釣りをやろうとは思っていなかった。

 

 そういえばその時、ラマダン中の夜の紅海のほとりで、現地のひとびとが、続々と私のもとへ集まってきた。な、なんだ、とおののいたら、つまりは『こっちじゃロクな釣り具が手に入らない。次にこっちへくるときはこれを買ってきてくれ、金は払う』などと云って、それぞれのスマホで欲しい釣り具の画像を出しては、私に見せてきたのだった。確かに、知人も華僑がやっている300円均一みたいな店で釣り具を買っていて、絡むわ、壊れるわで、イカは全く釣れずイライラばかり釣っていた(が、『真性イライラ』ではなさそうなのが彼らのいいところだ。プロというか、すでにイライラ越えしてる、というか)。おまけに私は翌日、彼らがそこで買ったルアーを油性蛍光マジックで『できるだけイカにアピールするように、派手に』塗る、という作業を強いられた。イカにアピールかよ、と思っても拒めなかったのは、ラマダンで日中ホントに外へ出れなかったし(出たとしても暑すぎたし)、持って行った本も全部読んでしまっていたからだった。

 

 あ、ごめん、結局旅じまんになってしまった。

 

 ま、そんな私が今、これほど毎日釣りに行きたくてウズウズしてるのも妙なものだ。
 写真は、こないだのアイゴ。引きはスゴかったので興奮したが、うまく煮れなかった。
 アイゴ、ごめん。