<03>春の午後

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日暮れ前、ふと久しぶりに、近所の川辺へ散歩に出た。
歩いて2、3分の近所で、越してきた当時は毎日のように来ていたのに、このごろはすっかりで、そのせいかまるで中国の僻地へでも来たような気がした。
もう2度と見ることのない景色というような、旅の気持ちになった。
今、ここにもし誰かといるとしたら、誰が自然だろうと、想像していた。別に恋とか愛とかの話ではない。
このカンジはどういうカンジなのか、というのを誰と味わうとしっくりくるか、つまり、ワタシは今中国にいるようなのです、というのを誰に云いたいか、という、とても抽象的で勝手な想像。知り合いの画家とか写真家とか親兄弟が思い浮かんだ。あまり会わないが根っこでは『身近』と思ってる人々のことを。彼らがこの風景をどう感じるか、知ってみたいと思った。
ひるま部屋で、ずっと以前彼らにいただいたはがきなどを読み返し、なんだか突然とても懐かしくなったこともあり。
だからといって、元気か、などと電話したりするタチでもない。

そんな川辺を、ワタクシなりの人類愛を腹のあたりから放出しながら歩いているつもりであったが、ふと、恋や愛だとそういうワケにもいかず、自己の信ずるところの正義のために傷をつけたりしあうもので、聖地には殺戮もいっぱいということになってしまいやすく、また、どうしてもそうなってしまう相性というのもあるのだなあ、などとボンヤリ思い、心を傷めもした。
願わくば、そういうところに物事を持って行かずに、ひょいと視点をそらさせてくれるような、気の利いたヒトと出会いたいものであります。そういうヒトに自らがなるべきでしょうが、だいたいそれには同じ目標がないと難しいと思います。

うすぐもりであるが、春のようなしめった優しさが顔にひんやりと心地よく。
犬やヒトがそれぞれどこからか、たくさん来ていて動いている。
それらヒトの多くは手ぶらのおじさん。失業者も妊婦もいる。中には『取税人』もいるだろうか。
そしてその全てが『隣人』と呼ばれるはずの人々であるなあ。

ひるま、昔のはがきなどを読んだ後、ミュウジックを聴こうとオーディオアンプの電源を入れたところ、キュウウウゥゥ、ぼんっ、と爆音がし、それと共に部屋が爆発した。
というのはウソで、爆発こそしなかったが、中の真空管が鮮やかなムラサキピンクに星の死際のように怪しく光り輝いており、のけぞった。
音楽をやっていながらこういうことに疎いワタシは、制作者に電話をした。それはまさしく死んだのです、そういうこともあるのです、との返事だった。修理してもらうことになった。『また飲みましょう』と電話を切った。

川辺から見る町の景色は、しばらく来ない間にすっかり変わっていた。
お菓子のような新しい家の群れがこつ然と出来ていて、陸橋の下とか、市営プール跡地では工事のおじさんたちが一定のペースで作業していた。
何ができるのですか、とおじさんたちに尋ねつつ、家へ帰った。
途中、石鍋で焼きイモをつくろうと、イモを買った。

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