<49>わけはない

<49>わけはない

自分の老化を話題にすると、若者はたいてい『そんなことないよ、まだ大丈夫だよ』と云う。私の発言をマイナス思考と捉えるらしい。つまり、拒否する。
いっぽう、先輩方はほとんど『お。君もそろそろですか、それはそれは』と微笑んだり、『そうだよ、だから自分のペースをお知りなさい。あ、それから次は ○○へ来るからね』などと云って、拒否しない。

意外だった。
年長者は目下の者がそんなこと云うと、そんな淋しいことを云うな、と叱るのだと思っていたら、その反対だった。もっとも私が20代でそれを云ったら叱っただろうが。

考えたら私も、若者だったころは年上の人が
『もうヤだねえ、目が見えないって不便で』
『たった今のことが、もう忘れちゃうんだからまったく、このザマよ』
と云いつつ、何かこちらが咎められている気がするほどの、切実な目をするとき、その少しイタ淋しい感じ、もしくは、待てよそれは自慢?という戸惑いをどうしていいかわからなかった。
え、全然若く見えるのになァ、とか、ならメガネかければいいじゃん、とか、つまり、何故ことさら話題にするのか、わからなかった。
だから、トンチンカンにも励ましの言葉などかけたような気がする。もちろん希望を持たそうという『善意』だ。けれども今思えば、相手の発言によって生じた自分のガッカリ感を交わそうとしたにすぎない。

今はわかる。
そういう時、ひとは励ましを求めているのでも、カッコイイだろとか、いつかおまえもこうなるぞザマミロ、と云いたいのでもない。

では何かというと。

私の故郷、やいづの昔のおばあさんたちは、道で誰かに会うとまず、
『わきゃあないねェ』と云った。
そして云われた方は
『ねえ。わっきゃあないよォ』と返した。
その後、ほんとだよお、まァったくねエ、そうかねあんた。
しみじみと、でもどこかスッコ抜けたイントネーションで、そんなやりとりをして、別れる。
『わきゃあない』。
おおかた、月日が経つのがあっという間だ、の意味で使われていたが、つまり、訳はない、ということだ。月日が経つのに訳はない。

そのココロは、物事には訳などないですね、そう、本当に理由なんかないですね、だ。
そんなこと、すれちがいざまにそれだけ云って別れるなんて、なんと哲学的。なんと普遍的。なんとクール!

年取ること自体に、意味などないし、悲しむべきものでも寂しいことでもない。そんなことはみんなわかっている。ただ、見えないところから少しずつ、今までとは違う現象が起きてくることに、うまく順応してゆく知恵が必要だという、とても実用的なことを、自分に言い聞かせているのだ、ひとつひとつちゃんと声に出して。
希望をなくしたわけじゃなく、先へ進もうとしているのだ。しかも万人の役にたつ科学なのだ。善なるあなたはその場に居合わせるだけなのだ。判断・処置を求められたわけではないのだ。なんぴとも、肉体の主人の内なる体感を、否定し得ないのだ。

・・・だから、拒まないでおくれよ。 先の先輩が、次は○○へ来るからね、と云ったとき、これぞヒトの優しさ、と思った。体験を持って諭す。愛だ。いや、言葉よりも口調にそう感じたのかもしれない。そこに癒され、反って、まだ自分は若いってことだ、と知った。
『そんなことないですよ、まだまだじゃないですか』と云われると、なにもアタシが80、90の境地と云ってるわけじゃないのに、と思う。はたまた、むかし美容師のヒトに、髪を切りながら『彼女さあ、何の本読んでるわけ?』と聞かれ『これ』と本を見せ『ふうん、ちょっとわかんないなあ。』と云われた時の、微妙な感じを思い出す。つまり、話がはずまないのがわかっていて尚、ありのままを見せてみたがやはり不発、というあの感じ。誰のせいでもない感じ。
そして、自分の口から言葉となって出た、行き場のないうす紫のモヤが、誰に受け止められることもなく、いつまでも頭上をプカプカするのだ。良き先輩とは、そのモヤでキャッチボールしてくれる人のことだ。

こういう心理だから、私はゆくゆく偏屈ババアになるだろう。
そのとき誰か、『わきゃあないねェ、アキちゃん。』と、道すがら声をかけて欲しい。必ずその人にとって、私は良き先輩、または本物の友となろう。

 

 

<49>