<57>メル・ギブソンのフンドシ
- 2010.09.06
- column
映画『PASSION』を見た。2004年、メル・ギブソン監督。
2004年と云えば、私はある歌手のライブを見たくて、鼻血を出しながらアルゼンチンへ行った年だ。そんな頃、この人はこんなものを作っていたのかと、見終わって私はしばし気が遠くなった。
コトバ(スペイン語)をやっているとどうしても、キリスト教徒であるってどういうことか、考える。考えたって、わかるわけないので、考えるというよりは『アタシがキリスト教の国で育っていたら、それをどう捉えるか?』と、ささいな経験を元にとりとめなく想像するくらいだ。が、とりとめなくても、かなりの頻度でマジに想像している。
以前、自分のエッセイ『お尻に火をつけて』や『サエタを聴きに』で、西洋の教会のキリスト像やマリア像を、八丁眉毛だの、SMっぽくて笑っちゃうだの、云いたいことを書いた。
書きながらすでに、そう書いたことを、いつかちゃんとキリスト教を知ったとき、後悔するやも、と思っていた。あるいは、誰かから猛攻撃を受けて、しょんぼりすることもあろう、と。でも、『異教徒』っていうのはそういうことだ、と思ったので、それも込みで、結局そのまま出した。いまのところ、別に誰からも文句は来ていない。
PASSIONとは、みんな知っているとは思うが、キリストの受難のことだ。お金に若干の余裕ある男女が、南の島で一夜を過ごすときに使われるPASSIONとは違う意味だ。もっとも、私もその意味を知ったのは、当時ベランダで育てていたパッションフルーツの、パッションの語源を聞いた時だった。南の島のフルーツだからパッションかよ、けっ、と思っていたら、違った。
聖書を読んだことが、なくはなかった。
むかしよく、ホテルの引き出しに入っていて、裸眼で読んだし、その後も、必要に応じてちょろちょろ読んではきた。が、いろんなひとがいろんな名前で、しらない土地に、とつぜん現れるし、字も小さいしで、全体像がなんだかよくわからないまま、時がたった。へえそうかあ、と思うところもあったとしても、とにかくわからないのだ。自分の小さな人生にすら、いろんなひとやいろんな土地が出てくるのに、そんな大きな時空、覚えられるか。だいいち、日本書紀や古事記だって、よくわからないのだ。
とにかく、私でもかろうじて知っていたのは、まァ平たく云えば、
ベツレヘムのマリアという女が
なぜか妊娠、生まれたのがイエス
当時のヘロデ大王が悪い奴なのでエジプトに逃げ
王が死ぬとナザレに引っ越し、そこで育つ
30才から3年間、各地で教えを説きつつ
エルサレムにゆく
‘そこでペテン扱いされて、捉えられ
さんざん鞭で打たれたあと、
十字架を背負ってゴルゴダの丘へ歩かされ、
そこで磔になり、左手、右手、重ねた両足の
3点を釘で打ち付けられ、死んだ’
ということになっている、ということくらいだった。
この映画で描いているのは、上記の’そこで~死んだ’までの、短い時間のことだけど(キリストの最期の12時間、だそう)、密度がすごい。監督の執念がすごい。この人はずっとこれを暖めてきて、とにかく作りたかったから作った、のだろう。あんまり動員とか配給とか撮影中のお弁当のこととか、考えずに。こんな大きくて、沢山の人がさんざん扱ってきた、誰もが知っているのに、誰も見たことのない(?)ものを、しかもこの時代にあえてよく扱おうとしたと思う。監督自身の、または、人はみんな持っているだろう英雄願望の、究極の形かも知れない。
あがめるのも、裏切るのも、つかまえてなぶるのも、それを嘆くのも、みんな人間のやること。いつも思うけれど、『神』ってモノを扱えば扱うほど、地上の手と足の生えた ‘人の子たち’ についてだけが、とことん濃く浮かび上がってくるのがおもしろい。
あと、この映画のもの凄いのは、当時の広く使われた言葉、アラム語で演技している、ということだ。ヘブライ語も出てくる。ハリウッド映画なんかでよくある、舞台はスペインなのに、市民がふつうに英語で喋ってたりするのを見ると、事情はわかるけど、それだけでやっぱりしらけてしまう。
PASSIONみたいに、ここまでやると、周りからはずいぶん狂人あつかいされたことと察する。それでもやる人を、わたしは好きだ。
とかくヒトは、物事をつきつめる他人のことを、さも自分はもっと簡単で、かつもっといい生き方をしているような口調で哀れんでみたり、完璧主義者だとか呼んで排除しようとしたり、煙たがったりするが、それは嫉妬か臆病によるものだ。
やってる本人が好きこのんでやってる以上、誰にも文句をいわれる筋合いはない。ザマミロ。
いったい何が、メル・ギブソン監督をしてこのような映画を作らしめたかわからないが、このメルさんのフンドシで、私はおおいに相撲をとりたい。
・・・それにしても、俳優って大変だなァ。
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